子規のいた庭

ずっと憧れていた根岸・子規庵へ。

正岡子規(本名常規・1867〜1902)は伊予松山に生まれ、明治16年(1883)に大学進学を志して上京。この上根岸の家に住むのは明治27年2月からで、そうして明治35年9月19日、結核で亡くなる35歳までの8年余を、母八重、妹律と共に過ごすわけです。ここは、まさに晩年の子規の命の限りの輝きと悲しみの日々を知る場所。

雑誌『ホトトギス』の発刊、『病床六尺』『仰臥漫録』もこの家で書かれ、日々多くの門人や友人が集まった俳句の聖地。この部屋に漱石も碧梧桐も虚子も鴎外も来たのです。

玄関を上がると、八畳と六畳の座敷のみの小さな家で驚きますが、濡れ縁のその先には秋草に彩られた庭が展がります。また、八畳の廊下には鳥籠が置かれ、なかには一羽の鶉が。子規も飼っていたそうで、その再現なのか。でもこの鶉はこちらで飼われている鳥でなく、夕刻近所の方がお迎えにきていました。

六畳間に入ると、なんと庭に向かって文机が置かれ、すぐ軒下には大きな糸瓜のなる棚が。さらにさらに、その先には鶏頭の紅い花が。あまりの出会いに感激し、目の前が曇り出します。硝子戸から秋の陽射しが溢れ来る机上には、小さな花入に不如帰の花が楚々と生けられていました。その机にはくり抜かれた凹みがあり、これは脊髄カリエスで左足をたためなかった子規のための配慮とか。そこに座して庭を望めば、もう胸は張り裂けそうなのでした。

思い浮かぶ子規の句・・・

鶏頭の十四五本もありぬべし

糸瓜咲いて痰のつまりし佛かな

小夜時雨上野を虚子の来つつあらむ

いくたびも雪の深さを尋ねけり

漱石がきて虚子がきて大三十日

重い病に寝たきりになって、それでも創作意欲を忘れず、自分を客観的に詠む子規。もっと生きたかったでしょうに、もっと詠みたかっでしょうに、そのジレンマや悲しさ、悔しさはいかばかりか・・・

庭を巡り、在り日の子規に思いを寄せたひとときです。

・鶏頭を子規の部屋より見てをりぬ 遊子

111110

4 responses to “子規のいた庭”

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